ありがとう 五十周年>

 

       こひしくば たずね来てみよ  甲斐の国

       都留の里にて  とわに待つわれ

 

    ありがとう五十周年

    115名の会員のお一人お一人。

    在り難い世の中で

    再び出会えて、よかった。

    ふるさと都留で。

    うれしさ余って歌を借りた。

    老いも若きも肩組み合って放歌高吟

    「なさけ」と「のぞみ」が、すべてです。

    長かろうが短かろうが私の人生。

    あなたの人生にエールをおくります。

    あなたは、あなたでいいんだと。

    疲れた時は帰ってこいと。

    いつでも、あなたを待ってると。

 

乳児を抱いたOGや子連れ夫婦をはじめ誰も彼も皆笑顔。

笑顔輝き心あたたまる五十周年でした。すばらしい集いにしてくださった115名のお一人一人、

ありがとう。そして、今日までつないできてくれた364名の卒業生全会員に感謝します。

 

 骨折、退職、委員長の難題に負けず粉骨砕身してくれた北川明、なおみ夫婦

 自分自身の苦境にめげず献身尽力、縁の下の力持ちに徹してくれた山中保一氏

この三人がいなかったら五十周年はなかった。ありがとう「山と川」

猛暑、酷暑の中、受付、案内、荷物持ち、追加の買い出し、テーブル設営とかけずり回ってくれたOB、OG,現役の皆さん、「縁の下」こそ宝あり。

 

宴果てて、テーブルふく人、床ふく人、缶ビールを片付ける人、先輩も後輩もなく全員力をあわせて掃除、片付けする姿こそ、わがワンゲルの伝統真髄。最高の五十周年にしてくださってありがとう。

 

そして何といっても地元の皆さん、ありがとう。

都留、山梨の方々に感謝します。大学の重原総務課長、亀田同窓会長、クラブ顧問の高田研教授、三枝昌彦県山岳連盟顧問、その他にも多くの方にお世話になりました。

 

どうぞ、いつまでも現役部員をあたたかく見守ってやってくださるようお願いします。

 

縁こそ人生のすべてです。かかわって下さった数多くの方々のおかげで、心に残るすばらしい五十周年にしてくださり、心より感謝お礼申しげます。

                               4期 酒井好冶

以下は、平成25年8月17日の50周年記念事業の準備から書きつづられた準備委員会委員長の酒井会員の思いです。

50周年」に寄せる思い

(その1) 

                 4代 酒井 好治

谷村は青春の「るつぼ」

数千の若者の魂が

逃げ場のない谷間で

すっ裸のぶつかり合い

  醜い劣等感

  バカバカしい虚栄心

  やり場のない性衝動

もがき苦しんだ お前が

つかんだのは  何?

  

ようやく、立秋もすぎ、しみじみと「谷村」を思い出しています。

「谷村」へ飛び込んだのは私。だが、飛び込ませてくれたのは、貧しい母と姉。

母の別れの一言は「決してするな!ゲバ棒振るのと山登り」

母の必死の思いも愚かな息子には通じず、あとは「山」「岩」「冬山」へと一直線。思えば、新入生歓迎会で八巻に出会ったのが、ドツボの始まりだった。

ワンダーフォーゲル部は「山登り」じゃないと教えられ、山の上でフォークダンスをする会だと言われたから、真剣にそうかと思い込み、「女の子の手を握れるぞ」との甘いササヤキに耳を貸したのがまちがいの始まりだった。

 以来、なんと多くの山仲間と出会い、友人と出会い、仕事、仲間と出会ってきたことか!縁こそ宝。

ところが、仕事についたのものの、10年ちょっとで慣れて天狗になり、真逆さまに落下。転勤でドボン。心筋梗塞になったり、再びありついた仕事も皆からヨイショされてるちに失うハメに陥ったり、全て我が身がなしてきたこと、誰を恨むことも無い。

今、66歳、何とか家内と二人ささやかな年金暮らし。毎朝毎朝4時に起き、畑仕事。孫に食わす安全野菜づくりが毎日の仕事。

ザッと振り返った私の半生だが、「谷村」こそ私が生き方をきめた場所。

「大自然に感謝し、畏敬の念をもって生きよ!」と。

今、退職以来11年間、大自然の中で開墾した一反の畑で有機農業、「谷村の教え」を実践しています。

毎朝4時に起き、5時に畑へ行き、備中鍬をふるい、夕方再び4時に白菜の苗を植え付け。一反の畑でとれた野菜を孫に食わすのが喜びの毎日。そんな私が何故50周年にこだわるの?と尋ねられた。

  曰く、今日の私の出発点だから

  曰く、心筋梗塞を2回もやって、お迎えが近いから

  曰く、年よりしか出来ないことがある筈だから

文字にしたら、こんなありきたりの味もそっけもないセリフしか出てこない。だが、心の中で一番気になってることを言おう。それは、今もなお、谷村での出来事がトラウマになって悩み苦しんでいる仲間がいるということだ。

グチャグチャになってしまった人間関係や遭難事故(今年が33回忌だと聞く)に深く傷つき、悩み、苦しんでいる人間がいると知ったのは、つい最近。「50周年」の世話人になってもらうべく、見ず知らずの後輩たちにTELして話し込んでしまってのこと

「世話人になって」と頼み込んでいる最中に、詳しいことをはじめて知った直正、香西、野口の遭難死のこと。

今なお、その死を自分が原因だと責めつづけている行方不明の仲間がいること。

又、クラブ規則「冬山へは登りません」を守れずに、冬山に登るために退部していった仲間がいること。彼は50周年に来れるのか?

又、当然のごとく男女間の悩み、恋愛をめぐってのゴタゴタ。それまで兄弟以上の絆で結ばれていたのが、グチャグチャになってしまった人間関係などなど、、、。

簡単にほどくことの出来ない、乱れ絡んだ麻の糸。聞けば聞くほど、どうにもできない俺がいる。そこには、どうせ当事者しか解決できない、その時、その時の本人たちに任すしか方法はない、、、。と頭の片隅で「そう思うのも、今まで生き延びてきた処世術さ」とササヤク小賢しい俺がいる。しかし、一方で、せっかくの「50周年」、こんな時に何か解決の糸口でもみつけてやれないものかと何度も何度も繰り返す。堂々巡り、、、。霧の中のワンデリングを繰り返してしまう。何かいい知恵ないかな、教えてんか!

ただし、小生、アナログ人間、手紙、電話しか、通信手段はありません。

しかし、誰でもいいから、教えてんか?

どうぞ、よろしく頼みます。

 

その2

9月2日、早朝おぞましいものを見た。1日の総会が終わり、夕食・宴会の後、やっと眠れたのが深夜の3時。だが、悲しいかな、老人の目覚めは前夜がいくら遅くとも早朝には目を覚ましてしまい、定刻の5時に目を開けると、そこで見たものは、てんでバラバラの10人のp雑魚寝姿。トドがいる、マグロもセイウチも、、、。傍には数えきれない一升瓶とビールの空き缶、これを見て、しみじみと実感がこみ上げてきた。やっと「50周年」がスタートしたのだと!

昨日の総会は15時から始まった。OB,OG25名、仙台から熊本まで、よくも集まってくれたものだ。初めて見る顔が多かったが、初対面なのに。どれもこれも山をやってきた奴の顔だ。「遠いところ、よく来てくれた」固い握手。互いに握る手に力が入る。いよいよ「50周年」ドラマの幕開けだ。総会は山中の作った提案をプロジェクターで意見を出しながら、その場でパソコンで映し出されたスクリーンに文字を打って、書いて確認してまとめていくという、なんとも今までに経験したことのない会議形式だった。山中に言わすと自分たちの会議はこれが常識だとか、、、。全く言いっぱなしにしないのだから恐ろしい。3時間という時間設定がアッと今に終わった。さて、これから本音が飛び出す宴会だ。これを待っていた皆。あっちでもこっちでも美昔に戻って名前も呼び捨て、、。「お前はな、、、」「50周年の目的とは、、、」とか、バンバンの本音トーク。これがいい。これが同じ山を登ってきた仲間の証!その一コマで自分は思わず伊藤文康の手を握ったとたん、何十年も前のシーンが頭に蘇ってきた。しかも、天然色で実に鮮やかに!それは雨の中の徳沢からの上高地の途中、穂高の合宿を終えての帰り道だった。なんと立派な道があるのに、そんな道などお構いなく無視したかのように、なんと梓川の流れの真ん中を歩く10人の男たち。皆がザックまで川に浸かっている。先頭は伊藤、ラストは俺だった。そのシーンが握手とともに瞬間浮かび上がってきたので、「確か、伊藤、お前やったやろ、あんなアホなことをして、俺を梓川に引きづり込んだのは・・・」「あの時は、死ぬかと思ったぞ、ひどい目にあわせやがって!」と言った途端、彼も瞬間に思い出したようで、「私じゃありません、私じゃなかったです」と言葉を返してきた。打てば響くとはこのことで、伊藤も梓川の一言で、あの「悪夢のようなアホなこと」が瞬間に蘇ったのだ。これが山仲間だ。汗だくで横尾から徳沢へと下ってきて、急に雨が降り出し、ほろ酔い気分でフラフラ歩いていた俺が、フト気づいたら、梓川の真っただ中、しかも、胸まで水に浸かりながら平然と歌まで歌って歩いていくではないか。ああ、これは悪い夢泳げない、もじ、足を滑らせて流されたら泳げないから死ぬ、こんな奴らと一緒にいたら俺は死ぬ、必ず死ぬ、、、しかし、俺一人抜け出すわけには行かない、頭では岸へ上がろうとしているのに体は全く脳の命令を無視して言うことをきかない。そのうち、北川がウイスキーをラッパ飲みし始めるし、山本も飲んでいやがる、、、。目を覚ませ、目を覚ませ、こんな奴らと心中するのかと何度も繰り返す。そんな時、誰かが大声で「いつかある日、山で死んだら、山の友よ、覚えていてくれ、、、」と歌いだした事を思い出した。何とこれが瞬間に走馬灯のように浮かび上がってきた。そこで、伊藤に「雨の中で、しかも、川の真ん中を歌を歌いながら歩こうなんて言い出す奴は、お前ぐらいしかいないわ」と言うと、「確かに先頭を歩いていたのは私でした。私でしたが、、、」「そやろ、お前が全部悪い。俺があの後心筋梗塞で2回も倒れたのももとはと言えば、遠い遠い遠因はあの梓川の冷たい水にお前が引きずり込んだからや」と道理もクソもなく責められて、ついに伊藤も「先頭を私は一番下っ端で命令されて歩かされたんです」「誰かさんが、ルートを川にとれ、我々は今から梓川の中を進む」と言われたからその命令にしたがったんです」と叫んで返した。そう言えば、誰かがそんなことを叫んだのを思い出してきた。そんなアホなことを平気で言う奴は「山中」しかおらん、だんだん思い出してきた。あの時、確かに伊藤の言うとおり「伊藤、正規のルートは梓川の中央部だ。右にルートをとれ!」と山中が言ったのを思い出した。「伊藤、スマン、今になってはっきり思い出した!悪いのは山中や!」、大体あいつは飯を食う時も、みんなの何倍もある武器といってコッフェルを出してきて片っ端からかっ攫っていって、うかうかしていたら食べ物もすぐになくなっていることが多かった。「あいつや!」とうことになった。しかし、まじめな話、あの時はあれで何も無く済んだが、山では一歩間違えば、遭難という結果も待ち構えている。自然の中で開放的になって自由を謳歌するのもいいことだが、自然の中には危険も一杯待ち構えている。山が高いからとか関係ない、低山でも川でも、どこでも同じだ。危険性は同じなのだ。その中でいかに山を楽しむか!だ。我々OB会の組織も現役を支えたいということが強い思いである。都留に来て、我々と同じように山を登っている現役が、安全に安心して登れるよう何かの役に立ちたいという気持がある。OBのみなさんは、いかがですか?でしゃばっても邪魔になるだけだし、何か役にも立ちたいし、50周年に集まって、また続きの話ができたらうれしいです。

いいお知恵を、アドバイスをしてください。ホームページにもドシドシ書き込んでください。お待ちしています。

 

その3

1枚の写真」

明日からお彼岸。長かった酷暑もひり続く雨音とともに去って行ってくれそう。も少しだぞ!

ここに1枚の写真がある。現役・OB80の記念写真だ。昭和57821日、場所は都留市「吉広」。現役は最前列右端の高橋以下70名。全員で写っている。OBは中央に小西さん、その右に私と娘(当時4歳)、そして、道浦、左に江田さん、その後に松田さん(旧姓秦さん)、一番後ろに山本。そして、女性お二人(名前が思い出せず失礼します)8人。この記念写真が私を50周年へかきたててやまない!

昭和5765日 香西 遭難死(北穂高にて)

 同 年68日 野口 遭難死(槍ヶ岳にて) 

*詳しい遭難事故報告書と追悼文集あり。読みたい方は連絡ください

 

続けざまに起きた19代香西(2)20代野口(1)の遭難死は現役クラブ員はもちろん大学全体。都留市あげての大騒動を引き起こした。そのわずか2か月後の写真だ。写っている皆はあれほど大酒を飲んだのに全体は、いささかも崩れていない。数人の者がテレかくしに笑ったり、アホな格好で写っている程度。全体的に暗く沈んだ雰囲気だ。当然だ。17代主将「高橋」の号令一下全部員がかき集められたのだから。まず70名の部員の大里熱気に圧倒された我々OB.前代未聞の大事件を聞きつけ、何はともあれ、とるものもとりあえず、行ける者だけが都留に行こう。集められるだけの金をかき集めて!緊急連絡しあって、駆け付けたのは8人だった。さぞ混乱し、右往左往しているだろうと思って着いたら、こっちが拍子抜けするほど全員が落ち着いていた。何よりも総指揮官「高橋」の腰がデンと座っていたからだろう。顔を見てOB全員安心した。これなら彼らは力を合わせて難局を乗り越えれるだろうと確信した。「我々にできることは、ヘリコプター代などの膨大な出費の援助ぐらい。慌ててあけつけてきたので、わずかばかりしかないが受け取ってほしい。引き続きカンパを募る」と手渡すのが精一杯だった。

一方、総出でOBを迎えてくれた一人一人の部員の思いをおしはかると胸が一杯になってくる。「そっとしておいてほしい」「土足で俺の心の中に踏み込んでくるな」とか、「飲んでも飲んでも消せない思いを何とかしてくれ」との叫びが聞こえてきそうで辛い。特にザイルパートナーだった者たちやリーダー会の人々。「あの時、なぜこうしてやらなかったのだろう」「俺一人、ここでこうして飲んでいていいのか?」とか。果てのない自問自答を繰り返していたお一人お一人。今、当時の皆さんの心中をおしはかって、ただただ申し訳なさで一杯だ。わかったようなフリをしてたが、結局何一つ分かってなかったし、今も本当のところは何一つ分かっていないのだろう。今も、事故当事者の一人が行方不明だという。「自分一人の責任だ」と30年たった今も、さまよい続け、責め続けているという。むごいことだ。たった一人でさまよっている彼を50周年に迎えられたらうれしいのだが。皆で全力を挙げて見つけ出してくれたら、それだけで超うれしいと夢のようなことを考えています。

私にもできることがあれば、教えてください。

 

 

その4

最近、めっきりと秋らしくなってきました。あちらこちらで運動会や祭りの声が聞こえてきます。私は畑の中で秋の清涼な微風に吹かれながら、若き日の自分と向き合っています。

 

その3「1枚の記念写真」の続きです。

昭和578月の全現役部員70名は苦しみと悲しみに満ちあふれて写っています。遭難から2か月後のOBの激励訪問でした。あの時、なぜもっと早く駆けつけてやれなかったのだろう。情報が入った時点で即刻! たった一人でも、直後にはせ参じて、共に苦しみを共有してやれなかたったのだろう。皆と一緒にオタオタと、うろたえてやりたかった。慙愧の念で今もいっぱいです。この思いを何とか生かしたいとずっと考え続けていました。

 あの事故以来、現役は深い反省から「岩登りと雪山は禁止」のルールで活動してきている。そのため「俺は雪山をやりたいから退部する」と言って出て行った主将もいると聞いた。オールラウンドで、大自然の中で生きようとした初期の我々とは土俵が違う。湖や川をさすらう者もいた。雪や岩にぶつかっていく者もいた。一人一人が好き勝手な活動だったが、「あいつは、それであいつらしい」と互いに認め合ってきたのが我々の時代。今、思えば実に気楽で、ノーテンキな時代だった。だが、待てよ。そのお気楽に山を登ってきたことが、あの大事故を引き起こした遠因になっているのじゃないのか?40年も前のことが、今またありありとよみがえって来ています。部長(主将)に推された俺は、入部してきた道浦や北川に負けまいと必死だった。彼らは高校時代から山岳部でずいぶん山に登ってきていたから。そら、俺にもメンツが、あるわな!でも山の上でフォークダンスをして女の子の手を握れるぞと八巻にササヤかれて入部した俺とは段違い。追いつこうとするあまり、岩登りや雪山へと突っ走って行った。勢い余って、地元の山岳会(もみの木山岳会)にも入れてもらい、山に入りびたりの生活だった。中でも会の前田さんという人は、なぜか俺の下宿に入りびたりの生活だった。富士急の線路工夫の仕事を終えた後は酒、一升ビンぶら下げて突然窓から入ってきてドツカレルのだ。「さっさと起きるズラ。3時の始発に間に合わねえズラ。ほら、さっさとしろい。三つ峠が待ってるズラ」。寝ぼけ眼で何度叩き起こされたことだろう。クラブの代表が、そんな風にやれ三つ峠だ、ロッククライミングだ、雪の八ケ岳だと、みんなを引っ張りまわしたので、仲間から反発もあったが、おかまいなし。ああ、アホな毎日だった。道浦に卒論も締切に日に書いてもらう始末。その節はお世話になりました。そして、その流れは道浦、北川、山本、山中へと代々受け継がれていった。しかし、最初に種を蒔いたのは俺。遭難事故の元凶は俺なんだ。張本人は私です。しかも、一番ダメなことは、ノーテンキさ、お気軽さで、次の代へと受け継がせてしまったこと。遊び半分、面白さ半分だけで、誰一人、まじめに「遭難対策」を考えようとしなかったこと。今、最も後悔していることは、一度もまじめに「遭対」を考えてこなかったことだ。だが、9月1日に集まった深夜、しみじみと伊藤に言われたことがこたえた。「遭難した者のことは、いつまでも忘れないでいてやること。そのやり方は一人一人違うがそれでいい。大事なことは覚えていてやること」と。

 言われたことが引っ掛かって、ズーと考えてつづけてきたが、今ようやく一つの結論に達した。もう一つあるのだが、それは次回回し。まず、俺に出来ることをやろう。伊藤の言う通り、それは忘れないためにも「遭難対策本部」を作ること。遅ればせながら、今、50周年を機に提案する。

 「遭対本部」は常設。いつも忘れないでおこう、山で死んでいった仲間を! 常に祈ろう、無事な現役たちの山での活動を!3人の貴い遭難死を風化させないためにも、そして、二度と事故を起こさないよう現役の活動を見守っていこう。そして、普段からどうすれば遭難しないか考えて、呼ばれれば駆けつけよう。そして、それでも万が一、事故が発生したら、直ちに現場に駆けつけよう。そんな暇な人間、行ってやりたくても誰一人いないと言うだろうが、いつでも動ける人間が一人だけはいる。俺だ。百姓仕事の俺なら、いつだって駆けつけてやれる。即刻駆けつけて、ウロウロ、オタオタしている現役の衆のそばにいてやれる。まずは情報収集と全国の仲間に発信だ。そうこうしているうちに、本部員が駆けつける。まず、北川だ。60歳の今も現役高校生と穂高だ、鈴鹿の山だと登っている。俺以上の立派なアホだ。彼が尚美ちゃん(奥さん)ともども、9月1日に家を空け渡してくれたおかげで、50周年は半分成功したようなものだ。あと半分は山中と高橋がやる。だから、アキラ(北川)は必ず駆けつけてくれる。そのうちに、北川に遅れをとるまいと山中が駆けつける。ヤスカズ(山中)頼むぞ。「飾りだけの本部長」の俺と違って、山の技術書をベースボールマガジン社やガイド本を山と渓谷やその他、遭難の本も書いている「遭対」の国立登山研修所の講師をしていた男だ。何度も山で死にかけても生きている「不死鳥」山中だ。冬のヨーロッパアルプスやネパール、インドヒマラヤなど海外遠征もやってきた山中に「遭対指揮隊長」をやらせよう。続いて道浦、普段は馬券ばかり買っているが、いざという時にはやる男だ。石橋をたたいて渡る中瀬もやってくるし、そのうち、高橋が大部隊をつれてやってくる。時間の問題だ。大切なのはまず動き出すこと。一人が二人になり、、、、、。続くものがいると信じて動き出すこと・・・・今なら最高の「遭対」顧問がいるぞ。それは、都留、鹿留に住む三枝昌彦氏だ。もみの木山岳会会長で70歳だが、今年の夏も四川省の山に登りに行っていた。山梨県の山岳連盟の理事長を10数年つとめた、地元の顔役だ。地元都留大のためなら喜んで顧問を引き受けてくれるだろう。これで最強の顔ぶれがそろった。

遭対「顧問」三枝氏、「勝手本部長」酒井、「本部長補佐」北川、「指揮隊長」山中だ。今回こそ本物の「遭対」設置の最後チャンスだと思う。高橋新会長、次回の11月の静岡での会議で、この件を真剣に検討してください

 

 

その五

火おこし、飯つくり

キンモクセイの花が満開で、いい香りの中にひたっています。

10月7日、北川宅で事務局会議(北川・山中・酒井)。翌日、北川の奥さんと北川と自分の3人で石水渓谷へ出かけました。山中も連れてきたかった。北川宅から車で20分の美しい河原で火おこし、昼飯つくり。もう何十年ぶりのことだろう。

到着し、さっそくかまど作りです。

 まず、体で風向きを感じて焚口を決めて、大きな石でコの字形に組む。次々と大石を運んできて積み上げていく。体が自然と先へ先へと進んで行くのがうれしい。かまどができたら、次は流木、枯れ木集め。至る所に転がっていたので苦労なし。それらをかまどの側に積み上げた。

 

いよいよ火付け。明が枯葉を一握り放り込み、上から縦に少し組木を並べた。彼がマッチをすった。ライターでなくてよかった。何か、儀式のようで、、、。か弱い小さな火に細い枝を立て掛けていく。枯葉、細枝、中枝、太枝、幹へと少しづつ、少しづつ燃や足していく。その手順通り、体が自然に動くのがたまらなくうれしい。チラッと燃えた小さな火が、自分の手でアッと言う間に、熱くて逃げ出すほどの炎に変わるのが楽しかった。そういえば、小さいガキの頃は風呂焚きと七輪の火おこしは俺の大切な仕事だったことを思い出した。姉と母が仕事先から帰るまで、俺も一家の貴重な働き手だったなあ、、、。ぼんやりしていたら、明がヤカンを炎の上にうまく吊るした。さすがだ!その間、実に手際よくなほみちゃん(北川の奥さん)が、ゴーヤやナスなどを切ってくれていた。フライパンに油たらし豪快に野菜を放り込む。もう菜箸でかき混ぜること、かきまぜること。一瞬でも休むと焦げ付いてしまう。

「火力がすごいね」「そやろ、木の火力は強烈やろ」と夫婦の会話も弾んできた。

献立は最高!

ラーメン(野菜たっぷり、あふれんばかり。白ゴーヤ、ネギは北川の畑から、   俺の畑からは持参のナズ、その他、、、)

野菜炒め(ナス、ゴーヤ、ハム、その他・・・大量)

魚の干物(アジを何匹か)

コーヒー

腹いっぱい食った。うあまかったー。ひとかけらも残さず食ったぞ。

もうこれだけで幸せな気分だ。見ると炎はおだやかな燠になり、静かな煙をくゆらせている。

突然、明が歌いだした。「山の煙のほのぼのと~・・・」即座に俺も「たゆとう森よ・・・」と歌っていた。今度は俺が「まき割り、飯炊き、小屋掃除~・・・」とやったら、「みんなでみんなでやったけ・・・」と唱和してくる。それがうれしかった。

なつかしい40数年前が瞬時によみがえってくる。

「飯盒で、ごはん炊きたいね」となおみちゃん。

「覚えているか?明。飯盒炊くときは聴診器あてたやろ?」

「覚えているわ。酒井さんに教えてもろたわ。棒あててグツグツ煮える音、聞くんやったな」

「ああ、聴診器は目からうろこやったな。それまで焦げ飯ばっかやったんが二度と失敗せんようになった。お寺の息子の八田先輩から徹底的に仕込まれたからなあ。ボーイスカウト出身やったから、よう知ってはったわ。」

「今でもやれるぞ、孫にも教えてやろうと思っている」

「電気なくても、ガスなしでも飯(メシ)は炊けるということを忘れてしもた人間が多すぎるなあ」「やっぱ、これが人間の原点やでー」とみじみのたまうのであった。

つい俺も「これからの時代、どんな災害に出会うかも知れん。どんな目におうても、メシは食わんならん。孫連れて山行って、火をおこして飯炊くことを教え込もうと思うてるわ。」

とずいぶん話がはずんでいった。

「実は今日の昼ごはんは川原で食べようと言いだしたのはなほみちゃんやてんでー」と明。

うれしかった。うまかった。楽しかった。明の言う通り、「人間、遊ばなアカンでー」思い出して尋ねてみた。

「お前、ウサギ狩りやったやろ?」と。かれは知らんという。やっぱ6つも違うとやっとらんのや。「小学校低学年やったころ、全校あげて山へ行って、大きな長い網を持たされ、一人ずつ立たされた。そこへ、ワーワー叫びながら皆がウサギを追い込んできた。ウサギ汁とか言うものも食わされたで」「そんなん、知らん」そうか、こいつも「兎おいし、かの山~・・・」の兎は、おいしい、うまい・・・の世代やったんか。「あの兎おいしかのやま・・・」の「おいし」は兎を捕まえるために追うということなんや。

やっぱ6つ違うだけで、遊び方もいろいろ違ったか・・・

でも、山遊びだけは一緒、火おこしだけは一緒、よう二人で誘ってくれた。北川明、なほみ夫妻に心から感謝だ。

明、足の骨折は無理するなよ。治りかけが一番むつかしいやで。「50周年」たのむでー!

次はもう一人の「50周年」に欠かせない準備をしている男、山中保一のことを書こうと思う。正座して、ちょっと力(リキ)いれて書こうと思っている。