ワンゲル創設期を振り返って

ワンゲル初代部長   栗生 秀夫

 

 大学入学間もない頃、入学前から入ろうと思っていた空手部に同じ高校の友人と入部した。当時の空手部のメンバーは、猛者というか気合いの入った面々が揃っていた。連日、突き・蹴りなどに汗を流し、特に巻き藁での訓練では、握り拳が徐々に腫れあがり痛みもあった。練習が終わっての帰り道、そっと顔を上げると涼しげな風が顔を撫で、目には町を取り囲む山々やその向こうに高い山が重なり合う様子が飛び込んでくる。

そんな日々をしばらく繰り返しているうち、いつしか山への思いがしだいしだいに高まっていった。本屋に行ってめくるのは山の本、すばらしい山岳映像に心動かされる時をしばし過ごした。山岳部の連中とは結構親しかったので、登山でのいろいろな話を聞くことができた、山の素晴らしさも分かった。しかし、問題なのは高所恐怖症、岩登りの類は多少なりともしなくてはいけないようだ。これでは山岳部は無理、つぎに本屋で手にしたのは、高原・湖・池・沼の類の本、こういう所に仲間と行けたら・・と思うと、わくわくした気分になってくる。こんな思いを山岳部の連中に打ち明けてみたら、ワンゲルを立ち上げたらいいのではないかという、助言をもらった。

それから以後頭の中は、ワンゲルを立ち上げることでいっぱいになっていた。

まずはメンバーをどうするか、その前に空手部を退部しなければならない、当時の空手部のキャプテンはかなりの猛者、退部届を出すのはとても怖かった。キャプテンの部屋を訪ねて退部の件を恐る恐る切り出した。キャプテン、自分の机の上にドーンと胡座をかいて、目を閉じてこちらの話を聞いていた。話が終わり暫くして静かに目を開けたキャプテン、事情はわかった、3ヶ月猶予を与えるという話をしてくれた。それから3ヶ月後、予定通り空手部を退部した。

まず、立ち上げるためにはじめに声をかけたのは、いつも行動を共にしていた木戸脇君、あまり積極的では無かったがやっても良いという返事、次に声をかけたのはよく遊びに来ていた吉田君、彼は立ち上げに賛同してくれた。三人のメンバーでワンゲルを立ち上げることにした。まずは、ワンゲルの語源から調べ、それを基に活動内容を考えることにした。

次に、簡単な組織について決め、初代部長に栗生が就任、後は簡単な規約・活動計画を作ってワンゲル同好会の部員を募集することにした。

7,8人位の人が来てくれればと思ってワンゲル設立に臨んだ。ところが想定外の30人を超える程の人数が集まる。予期せぬ事態にややあわてた感じになり、取りあえずワンゲルについて、活動や規約について説明し、次回に詳しく話をすることにして第一回目のワンゲルの会を終えた。その後、3人で検討を重ねて同好会としての形を作った。

同好会発足後、何回か活動を重ねたが、路線についての考えの違いが明るみになり、2つのレベルに分けて活動することにした。全体としての活動と班ごとの活動と2本立てでしばらくは活動することにした。その2つの班はB班とC班とし、B班を栗生が、C班を吉田が担当することにした。その後吉田君は、自分の仲間何人かに声掛けしたみたいだが、僕が把握していないメンバーもいたようだ。

ワンゲルを通して新たな仲間ができたし、活動内容も自分が頭に思い描いていたものに近かったと今でも思っている。花咲く高原での歩行、ほてった体を心地よく包み込んでくれる湧き上がる霧状のガス、ミステリアスムードいっぱいの湖畔の周遊道、今でも当時の活動の様子が懐かしく頭をよぎっていく。

設立当時関わってくれた木戸脇君、吉田君は、既にこの世になく、僕のワンゲル設立に多くの支援をしてくれた山岳部、今はその山岳部も無くなっている。

あれから、50年を過ぎた現在、ワンゲルが今も存続し、50周年の記念式典を迎えることが出来たことは感無量であります。ワンゲルの発展に尽力してくれた後輩諸氏、関係者に改めて御礼を申し上げます。

 

 

自然は人を育て  人は自然を守る

昭和42年・初等教育学科卒  中西 正一

 

 私は、1963年(昭和38年)4月に入学した。同じ寮に泉君がいた。入学のその日に最初に友達になったのが、後藤君であった。数日後に友達になったのが、春本君(都留文科大学事件の記録の執筆者の一人=物故)であった。吉田君=物故、栗生君、木戸脇君=物故、とどのようにして出会ったか・・・・・・後藤を介して知り合ったのか。記憶が定かではない。従ってワンゲル創部に誰がどのように関わったのか

確かなことを思い出せないのである。ただ、時には一緒に時には別々にワンゲル活動をしていたように思う。

 私は、入学当初は生物部に在籍し篠原教授について大菩薩峠等に登り色々な植物について学んだ。特に印象に残っているのは「ツマトリソウ・レンゲツツジ・オキナグサ」などである。また、柔道部にも入部し浅川教授に講道館柔道を学んだ。そして講道館柔道の黒帯をもらった。

 従ってワンゲル活動に救いを求めたのは、民主化闘争が激化した昭和40年・3年生の時であったと思う。この民主化闘争は私達が入学した1963年10月に始まり、昭和40年9月8日からの同盟休校、その後、教官5名が懲戒免職処分、学生十数名が退学処分(その後も学生の大量処分が出るというニュースが流れた)が出されたのである。

 闘争当時、中西・吉田・泉はそれぞれ科のリーダーでもあった。学年の討論会を開催したり、オルグ活動をしたり、親睦会を開催して結束を固めたり、抗議集会やデモ行進に参加したりと、闘争を組織する側にいた。大量処分が出されるのではという知らせにどのようにすべきか迷い、両親にも相談した。「闘争を辞めてくれ。いままでの親の苦労が水の泡となる。」と言う返信に一層苦しんだ。このような中にあって、救いをワンゲルに求めていったのである。

 ワンゲルは、ナチス・ドイツの迫害から逃れ、自然をさまよい歩きながら、強靱な心身を育て、自然に学び、仲間を増やし、ナチス・ドイツに対峙しようとドイツで生まれたものであった。そのワンゲルの精神と重ねたのである。吉田君達と夜中中歩いて三つ峠登山をしたり、御坂山系を縦走したり、大菩薩峠に登ったりと富士周辺を歩き回り、何もかも忘れようともがいた。

 ワンゲルの部員ではなかったが、親友の春本君は教官の裁判闘争の支援活動に奔走していた。春本君に申し訳なく思いながらもワンゲルの活動にのめり込んでいった。今なお当時を想い出すと自分の歩んだ道が人としての道だったかと苦しみ、今は亡き春本君・吉田君にすまないと思うのである。

 卒業を目の前にしたあの日、交通事故で吉田を失った。後藤君が葬儀委員長を務め多くの仲間と共に葬儀を行った。後日、ワンゲルが中心となって、多くの仲間に呼びかけ吉田君の登山遺品を持参し三つ峠登山をした。富士山が一番美しく眺望できる、吉田君が一番好きだった場所に遺品を埋めた。これが私の最後の三つ峠登山となった。

 2年前、友と共に長崎県五島列島の吉田君の墓参りをやっと実現した。五島の港に着くなり涙が流れ止まらなかった。亡くなった吉田君を一晩中抱いておられたお母さんもお父さんも既に他界されていたが、弟さん夫婦・二人の妹さんが涙を流しながら迎えてくださった。

 私達が入学した春、新入生歓迎会で初めて登った三つ峠、闘争から逃れ何度も登った三つ峠、亡き吉田君と何度も夜中に登った三つ峠、吉田君の遺品を埋めた三つ峠にいつの日か登ることが私の夢である。

 私にとって、ワンゲルの活動は懐かしい。しかし、思い出すことは苦しく悲しいことでもある。重荷を背負いながらも、ワンゲル活動で得たものを教育活動に、自分の生き方に生かしてきたように思う。それは、強靱な身体と生涯の仲間、自然から学び取った自然観である。若い時から体育の先生、理科の先生、図工の先生と、子どもたちや仲間から呼ばれてきた。教員の仲間では走・跳・投では誰にも負けない記録を残せた。また、自然を生かした多様な取り組みが出来る力やそれらを表現する力を発揮することが出来た。70才にちかくなった今も、自然教室の開催、執筆活動や講演等を通して、多くの子どもたちや地域の人たちと触れ合っている。

 「自然は人を育て、人は自然を守る」これが私の信条である。私の家は、標高600mの高原にあり豊かな自然環境に恵まれている。大きな家に今は妻と二人だけの生活をしている。一昨年は学生時代の仲間7人が泊まり喜んで頂いた。

 広島にお越しの際。また広島県福山市をお通りの際にはご連絡下さり是非お立ち寄り下さい。

 

 

 

2代目部長として

                          近藤 一彦

 

 半世紀近くも昔のことで、記憶も曖昧な面が多く、ことの前後や順序が間違っていることも多々あると思いますが、私の関与した設立間もない当時のワンダーフォーゲル部の経緯や活動状況を以下、少し述べてみたいと思います。

これも時間が少し曖昧ですが、私が入学(昭和39年)してから数ヶ月経過した頃、旧校舎の廊下壁面にワンダーフォーゲル同好会の勧誘ポスターが貼られていました。

高校生の頃、多少山登りをしていたので、早速入会しました。ただ当時の会は、一期生の中西さんや栗生さん等の方達が同好会として発足させたばかりで、会の活動はまだ少ないという印象で、当然ながら大学からは正式なクラブとしては認められておらず、任意の団体としての存在でありまして、学校から正式なクラブ活動として認可される一歩として準クラブとして認可されたのは、私が二年生の時でした。この時の認可申請手続きは一期生の方達によって行われ、その苦労が報われて正式なクラブ活動として踏み出すことになりました。

また、この時に「お前がクラブの部長をやれ」という中西さんなどの先輩の命により諾々として引き受けたことを覚えております。

以下、入部してから私自身が実際に参加した行事の一部を箇条書きに列挙してみます。(但し、実施された順序や場所が不明確なものは割愛しますのでご容赦下さい。)

・伊豆大島(テントにて一泊)、伊豆半島の一部徒歩周遊。

・三つ峠登山、尾根伝いに河口湖。

・奥日光中禅寺湖(湖畔キャンプ場でテントにて一泊。)戦場ヶ原徒歩周遊。

・大菩薩峠登山。

・北アルプス白馬岳連峰縦走。(テント及び山小屋利用で計三泊)

次に、3年生の後半であったと思うが、私の部長としての最後の務めは大学事務局への活動実績報告と新たな入会勧誘を兼ねて部の過去数年間の活動実績を写真と共に展示しました。

尚、この展示会の準備や実施に関しては、同級生の小林義幸君を中心に3期生等の協力支援を得て無事終了することができました。

また、次期の部長として3期生の酒井則行君を指名して、彼らがこれから思う存分自由に活動できるように小林義幸君、森田祐一君と共に部活動から離れました。

 

 

 

ワンダーフォーゲルと私

                      酒井 則行(三期

 

私が都留文科大学に入学した時は、まだ木造の旧校舎であった。門から校舎までの間にいろんなクラブの部員が勧誘をしていた。私は同じ下宿のN君と登校していた時であったが、N君が「ワンダーフォーゲルに入ろうや!」と話しかけてきた。私は中学時代のキャンプの楽しかったことを思い出していた。しかし、楽しいばかりでなく毎日練習もあるのではないかと危惧した。同好会だからそれほどのことはやらないということがわかり、同じ関西から来た下宿仲間と一緒なら何とかなるだろうという思いで入ることに決めた。

新人歓迎会で紅葉台の方へ行ったような気がする。その後、夏は白樺湖から美ヶ原の方に行くということをN君から聞き彼のアドバイスで靴や用具を揃えて出発した。1日目白樺湖に着きテントを張る、テント周りの溝掘りもそこそこに食事をして就寝。なんだか背中が冷たい。雨が降って、水がテントの中に入ってきたのだ、あわてて溝を深く掘る。あまり熟睡もせず夜が明けた。霧に煙る車山を登り霧ケ峰へ。晴れてきた。高原の緑が美しい。しかし歩けども歩けども目的地の扉峠がどのあたりやら、足が動かなくなってきた。同期の1年生達はついていっている。いつの間にか、私は、最後尾になった。そして一隊とだんだん距離が開いていった。それを見て、K先輩が下がってきて私にスピードを合わせ扉峠まで同行してくれた。歩きながら、私は先輩に随分愚痴っていた、「置いて行くなんて」と、しかし今考えてみれば高校時代運動部にも入らず鈍った体でいきなり登山をしたのだから当然の結果である。

2年になった。夏は、白馬岳だった。この時は少しは足が強くなっていた。しかし、女性の先輩がバテ、先輩たちが荷物を手分けして登りきった。2日目、白馬鑓温泉に向かう途中の雪渓で、昨日の女性の先輩が足を滑らせズーズーと頭から滑っていくM先輩が止めようとしたが一緒になって滑って行く我々はスロービデオを見ているように茫然としていた。丁度そのとき後ろから歩いてきていた二人連れの人たちが、アイゼンを使いながら雪渓を滑っていく。二人の前に回り込みピッケルを雪渓に突っ立てて二人を止めてくれた。大事故につながる出来事であった。

私はこの二つのワンデルングから、バテない体力つくりと登山技術、天気図や地図の読み方、テント設営など沢山の山の知識を身につけなければならないと感じた。そして、そもそも、ワンダーフォーゲルとは何ぞやというところに突き当たった。先輩の持っていた「ワンダーフォーゲル手帳」を基に学習をはじめた。ワンダーフォーゲルとは、渡り鳥。自然のなかに入って心身を養う運動としてドイツで始まったこと。ドイツとは条件が違うが、その精神で私達はやっていこう。山岳部とは、違うのはこういうことだったのかと納得した。しかし、同好会なのだから適当にやればいいという雰囲気もあった。私は入部の時の柔な気持ちから一変していた。中途半端に終わりたくないという気持ちから同期の人たちには強く迫った。私を誘ってくれたN君はバイトも忙しく。私の言うことは分からないでもないが自分は出られないという感じで退会してしまった。同期に入った者は、女性2名と私だけになってしまった。しかし、後輩たちがいるし、次々と入ってくるような会にしていけばいいという構えで2年の秋からは、ボーイスカウト経験者の先輩を講師に山の知識を学び、無粋ではあるがブロックをリュックに入れて裏山に登るなどの練習を始めた。また、同好会としての一体感を持つためにユニフォームを作ることにした。色は、オレンジ色T.W.V.のイニシャルも入れてもらった。夢のあるワンダーフォーゲルにしようということで北海道一周を打ち出し桂川祭では、北海道の大きな地図を描いて宿泊予定地なども示し「ワンダーフォーゲルに入って北海道に行こう」というキャッチフレーズで大宣伝した。その効あって入部者も増えた。1月追い出しコンパがあって次期主将は、1年から居た男だということだけで私がやらざるを得ない状況となっていた。私は腹をくくった。

そして3年になるころ、前年主将だった近藤先輩から「今年は、部室がもらえるから連絡があったら行くように」という話をいただいた。3年ほどの活動の実績があってクラブ昇格が決まり部室がもらえるようになったのだった。私はそのことについての事情はよく知らない。クラブ昇格は、初代主将栗生さんたちの願いであり近藤さんへの申し送りによって実現したものだった。

3年になって体育会の懇親会にワンダーフォーゲル部が初めて参加することになった。体育会の懇親会がどんな内容か分からない。体育会といえば猛者の多いところだけに昇格クラブに対して当日どんな手荒な歓迎をされるか分からないという思いで身構えてしまった。(そんな伝統があったかどうかは分からないが、当時は無茶がまかり通る雰囲気もあった。)無茶飲みを覚悟してアルコールの吸収を遅らせるために副主将の酒井好治君とバターをたっぷり食べて参加した。挨拶が終わり宴席となった。私は、緊張と飲むのを控えていたので酔いは回っていなかった。宴もたけなわ無茶を言ってくる者はいないかと周りを見回していると向側の席で絡むような声がしていたかと思うと「ケー」という声とともに足が飛んだ、顔を押さえた主の指の間から血がにじんできた。宴席は一瞬静まり返った。すかさず間に人が入り宴はしらけながら続いた。私はますます醒めてしまった。この事件のおかげでか、初参加のクラブへの洗礼はなく無事下宿に帰ることができた。(この事件については、偶然にも国文科同期の作詞家になったK君が、「わが青春の日々」[発行所:ケイ・エム・ピー]でその事情を明らかにしている。)

これでひとつの山を越えほっとした。後は、着々と準備を進めることだ。クラブに昇格してのメリットは、なんと言っても部室をもらえたことだった。それは、みんなが毎日のように部室に集まれること、増えた備品等を置いておけること、そして体力づくりの練習も部室から始められるということであった。

北海道行きにはもってこいの条件が整った。

週何回かブロック運び練習。金曜日夕方には御正体のふもとでのキャンプ、土曜日朝には1時間目の授業に間に合うように帰ってくるという限られた時間内に行動する練習も何度か行った。厳しい練習だけでなくキャンプファイヤーでは、みんなで山の歌やフォークソングなどを歌いみんなの心は一つになっていった。辛い時には、「ガンバー」と励ましながら乱れることなく登りきった。互いの信頼感も厚くなってきた。こんな仲間と一緒に北海道を回れるのだという期待感でいっぱいになっていった。仕上げは、白糸の滝から田貫湖でキャンプ。田貫湖から本栖湖そしてキャンプ。その後どこまで歩いたか忘れたが平坦地を歩く練習もして。いよいよ谷村駅を後に上野に向かった。みんなと一緒に北海道の自然の中でともに鍛えられ大きくなって帰ってくることを信じて夜行列車に乗り込んだ。みんなワクワクしていた。

運命のいたずらは、次の朝にやってきた。

八戸を過ぎたころだったろうか「皆様おはようございます。」列車のアナウンス「電報が届いております。山梨のサカイノリ・・様。車掌室までお越し下さい。」後の方がよく聞こえなかったが、私は山梨から出てきた、サカイは私、ノリ・・なんだか私のような気がする、念のため車掌室に顔を出した。発信は山梨で電報の中身は、兄が病気になった電話するように。というようなものだった。青森に到着するや公衆電話を探しダイヤルを回した。兄が血を吐いて手術をしたので店の手が足りない。帰れるものなら帰ってきて欲しい。とか細い妹の声。

1年越しで準備を進めてきた北海道。すべての計画は、私を中心にして進めてきた。私が引き返すことでみんなに迷惑をかける。私はリーダーとしてみんなを北海道に連れて行く責任が・・・・。等々頭をよぎった。

思い返せば、入学式の2週間前に父が亡くなった。それでも、親戚や兄弟たちは山梨に行って勉強して来いという理解を示してくれた。私は、大阪を離れ独り気楽な大学生活を送っていたのである。兄弟たちの理解があってここまでやってきた。兄が倒れたとなれば、リーダーとしては無責任なことになるが帰るという選択しかなかった。折角ここまできたのに行きたいという思いを断念しなければならない無念さと、無責任という重い気持ちを抱いて青函連絡船に手を振って別れた。

もし行けていれば、練習の成果を実感出来ただろうし、みんなと同様に大きな自信を持って帰ってくることが出来ただろう。

9月、北海道を一周してきた仲間たちは、アイヌこけしを持って下宿へ来てくれた。私のことを忘れず報告に来てくれたのだ。大変うれしかった。しかし、仲間たちの楽しかった北海道一周の話を聞くのは辛く、クラブの中での孤独を感じていた。

私には大変辛い経験であったが、みんなにとっては大切な経験や思い出となった。私が1,2年生のとき感じた。「このままのワンダーフォーゲルでいいのか」という疑問への新しい試みは成功したといってよかった。

ここまで私の時代の経験を振り返ってみたが、年々の部員の皆さんにもドラマが有り思わぬ失敗に忸怩たる思いに打ちひしがれたこともあったことと思います。しかし、「ワンダーフォーゲルとは何ぞや」「このままでいいのか」と仲間とともに自分の生き方を重ねながら粘り強く活動してきたのだと思う。その結果が50年という節目を生み出したのではないだろうか思う。毎年頂いていた、追い出しコンパの案内に私は毎年感動していた。本当によく続いたものだと思う。創設者の皆さんへの感謝とともに、受け継いでここまで続けてきた後輩の皆さんに感謝します。自分自身のために入ったワンダーフォーゲルクラブであったと思いますが。まさか50年後を意識していた人などいなかっでしょう。廃部したクラブがあるということを聞くにつけてもまさかの快挙だと思います。クラブを維持してきた後輩の皆さん、本当にご苦労様でした。

私は、数年前までは、なつかしさも手伝って大学時代に登った槍ヶ岳、白馬、八ヶ岳、北岳などに登っていましたが、時間がままならず、歩かなくなっているうちに老化が襲ってきてもっぱら、便利な乗り物に乗って東北や信州へ縄文人を求め「時の渡り鳥」生活をしているこのごろです。

毎年毎年の活動が数えてみれば、50年を迎えました。若者を鍛える「ワンダーフォーゲル」の活動はこれからも求められるでしょう。都留の地でいつまでも続くことを願っています。

                                                      2013.7.1.

 

 

 

「ワンゲル」私的断想

酒井 好治 (4期)

 ああ、なぜ八巻に会ってしまったのだろう。入学してすぐの、クラブ勧誘の日、暗い木造校舎の教室にテントが1張りだけ。おやと思って目をこらしていたら、突然話しかけてきた小さな男、「いいべー、いいべ。ワンゲルだあ。女の子とフォークダンスできっぺ。手にぎれるべ。テントでもいっしょだあ。寝る時もだああ。いいべー。」生まれて初めて聞いた強烈ななまりで、サッパリ何言ってるのか分からなかったが、単語だけが「ワンゲル」「女」「フォークダンス」・・・・と頭にたたき込まれ、スケベ心で入部届に飛びついてしまった。まことにドツボにはまった一瞬だった。ちなみに、お話ししておこう。その後、三つ峠登山した時、たしかにフォークダンスは、した。したが、女の子はユースホステル部の一人だけ、残りは30人すべて男ばかり。その後「アホ、ボケ、カス・・・サギ師、ペテン師野郎」、思いつく限りの悪口雑言を八巻に投げつけたことは言うまでもない。かくのごとく、世の中、うまい話は何一つないということを若き後輩諸君、肝に銘じておいて欲しい。しかし、同じ一年生、新入生だった八巻が何故俺を勧誘する側にまわっていたのか、今もって、さっぱり分からない。おもろいやつだ。八巻が今また何か、くっちゃべっているようです、私の回想の中で。

 

「Wander Vogelは、渡り鳥だっぺ。さすらい歩きだべ。あっちフラフラこっちフラフラだっぺ。」ここは誰かの下宿。狭い部屋が大勢の部員の熱気でムンムンしています。「ワンゲルとは何ぞや」学習会です。司会進行は3年主将の酒井則行さん。私も酒井ですので混乱をさけるため、以下、彼のことを「則さん」と呼ばせてもらいます。狭い一室に、かき集められたのは1年男女と、2年の私、八巻、鈴木義雄。そして鈴木俊夫、森岡、長尾、林本の7名。我々2年だけが女、ゼロで肩身の狭い思いをしていました。「おいゲビオ!」(注・当時私は鈴木義雄に心酔していて、やつの口癖「そりゃあ下卑てるぞ」にすっかりイカレ、くる日もくる日も、「下卑る」「下卑てる」「下卑るな」の連発。ために先輩や後輩達から「下卑雄」「下卑ちゃん」と呼ばれていました。)ああ、鈴木義雄は水戸一高出身。下駄履き腰手ぬぐいの飲み屋大好き男。テントの中で「山の詩集」を読みふけり、突然、「ああ、フランスへ行きたしと思へどもフランスはあまりに遠し・・・」と大声で叫び出し、飯盒メシを食っている俺の横で、キャベツ一個をバリバリ食ってた変人。やつの朝飯はキャベツ一個だけ。八巻におとらずおもろい男だった。

ああ、いかん。脱線しはじめたら止まらんのが吾が輩のクセ。奇人、変人、文人、超人がゴロゴロいたが、それは別のところで紹介しよう。今は先輩達の話でしたね。「おいゲビオ!」「いつになったら女の部員つれてくるんだ?」「女なしは、お前らだけ。2年だけ。恥だと思え、男の風上にもおけんやつらや」「原因は、どいつや。女がこわがって近よってこんというのは?」飲んだらいつもその話。口々に責め立てられた。「なにか?、1m以上近づいたら、それだけで女は皆、妊娠させられるそうやなあ。そら、女は、おびえてるだろう。」「そんな物騒なやつ、俺がつまみ出したる。白状せえ。どいつや。?」とどのつまり、いきつくとこは、きまってた。「どんなんでもええ。女やったらええ。一人だけで許したる。かっさらってこい。」非道、理不尽、支離滅裂。飲んべえの言うことは、皆同じ。こんな光景は学生時代だけと思っていたら、何のことはない、昨年の、鈴鹿の北川宅でのワンゲル総会の宴の席でも見てしまった。50周年、万歳!ああ、絶滅危惧種飲んべえ達は、生存していたのだ。40年の時を越え、飲んべえ恐るべし。ああ、愕然、慄然、茫然自失!思えば「男はみんな狼よ」のよき時代だったなあ。肉食男子、諸君。またまた横道へそれてしまった。

話をもとへもどそう。たしか、下宿でのワンゲル学習会のシーンでしたね。「ゲビオ!読んでくれ。今日は3ページや。」とキャプテンの則さんの声がします。みながページをめくる音が聞こえてきます。本の名は「ワンダーフォーゲル手帳」。確か新書版で、分厚いものでした。言葉の定義に始まり、幕営の仕方、カマドの作り方、火のおこし方、メシの炊き方・・・なんでものってた我らの「教典」でした。則さんが神田でさがし出し、全員分、買ってきてくれたものでした。「ワンゲルとは何ぞや?」学習会が始まっていたのです。再び八巻の声がします。

「要はさあ。自然の中であっちこっちさまよい歩けっちゅうのがさ、ワンゲルだっぺ。川でも湖でも、山でも、いいんだべさ。」と。「だからさ、ボートで川遊びしてても、アイススケートしてても魚釣りしててもワンゲルなのさ。」と別の声。これは聞き捨てならじと俺が叫びます。「ちょっと待て。理屈はそうかもしれんが、やっぱ山やろ。ボートもアイススケートも、おもろいが、すぐ飽きてしまう。皆、思い出せ、山に登って風に吹かれたら最高やったやろ、あれや、あれ!雨でも雪でも、やっぱ山や、山やらんでワンゲルて何もんや。」熱く語っている俺がいます。ああ、いったい何回同じ論争を繰り返したことだろう。だから、富士急ハイランドで全員スケートしたし、皆でテントかついで本栖湖一周もした。もちろん三ツ峠、八ヶ岳など山は当然。いつの間にか、八巻と俺の顔を見たらくり返していた論争は「おまえはおまえの好きな道を行け。俺は俺の好きな山をやる。どっちもワンゲルだ。」と、どっちかが言い出し、以後、うやむやとなった。

学習会での理論武装より、体力作りが重要課題となってきていた。どこを歩くにしても、皆の体力が不足しすぎだった。これではあかん、となって「体力強化トレーニング」が始まった。今もある旧館の非常階段を何度も昇降した。キスリングにコンクリートブロックつめてかついで。その姿で裏の「ケツ山」を藪漕ぎしながら登ったのも幾度か。懐かしい話だ。なつかしいといえば、先輩の下宿、何かといえば皆、集まっていた。一杯きげんで狭い下宿に大勢、ゴロゴロ。清水さんや森田さん。近藤さん、小林さん、津川さん。ホロ酔いかげんでギター一本でみんなで歌った曲、今でも覚えていますよ。「いつでも荒れた手をしていたね、エプロンの端、まさぐりながら・・・・」。私にとってワンゲルとは「下宿」「歌」「ギター」「煙草」「酒」、・・。ああ、いかんすぐ横道にそれてしまいそう。話を戻します。

 

「ワンゲルとは何ぞや」論争は、一つの実践へと集約されていきました。つまり、「理論を実践してみよう」ということになり、「北海道一周ワンデリング」が浮上。広い北海道を2週間かけてさまよい歩こうという計画です。もちろん「放浪旅」ゆえ、宿泊地のみ決め、あとはアバウト。おおよそのルート、地点だけが決められました。メインは大雪山だったが、最北端の宗谷岬、礼文島を目指し再びさいはての知床岬でクナシリ、エトロフを眺め、もちろん、あこがれの札幌、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の聖地も・・・・。

15人の大部隊だった。(3年4人、2年6人、1年5人、男9人、女6人)その大部隊が、何と、形ばかりだったがリーダーは俺2年。4人の3年生先輩をさしおいて何故?キャプテンの則さんは?それがドラマの始まりだ。今、脳裏に浮かぶのは青函連絡船。青森から函館への超大型フェリーだ。何せ、列車そのものまで積み込むのだから、たまげた。今、その船上デッキの手すりにずらり並んだ15人。我々から、岸壁のたった一人にむかって色とりどりのテープが投げかけられ風に流されている。え?何故、肝心かなめの、我々15名を引率するキャプテン則さんがあんな所で何してるの?大勢の見送りの人々の中で、ひときわポツンと一人きりで、さびしげなのは何故?理由は乗船直前、則さんに届いた一通の電報。「アニ、キトク。スグカエレ。」ああ、こんなことってあるのだ。人生一寸先は闇。誰にもわかりはしないのだと初めて、つくづく思い知らされた一瞬だった。

 則さんは別れの前に15人を集め、一人一人に言った。「残念だが、ここで見送ります。心残りだし心配だが、せっかくみんなで苦労して計画し、ここまでやってきたんだから、このまま、皆で、旅を続けてほしい。俺の分まで頑張ってきてほしい。この先、10日間も旅を続けるのだから、いろんな苦労に出くわすだろう。そんな時、皆で心をひとつにしてわがまま言わず、協力し合って乗り切ってきてほしい。リーダーにはゲビオを指名します。理由は「副主将」だから。主将の私がいなくなったら、副主将が代行するのは当たり前だから。3年生4人は彼を支えてやってほしい。何かもめごとがあったら力を貸してやってほしい。仲裁してやってほしい。・・・・」と言い残したのだ。皆、うつむいているしかなかった。俺は、ただ1人、ポカンとして「そりゃねえべ。そりゃムリずら。絶対ムリやんけ!」と心の中で叫んでだ。いくら副主将だからといって、いくら年齢こそ一浪だったので3年と同じでも、こればっかりは無理。ああ、これはワナだ、ドツボだ、インボウだ、と叫びまくっていた。則さんが中心となって計画し、ここ青森まで皆を引っ張ってきておきながらこれから先は、お前にまかすと言われたって出来る筈がない。心の中で必死に叫び続ける俺に、出船のドラの音、無情の汽笛、今や則さんに投げたテープも波間に消え、則さんの姿さえ見えない。どうする、どうする?俺は俺一人のことしか考えてなかった。小さい、小さい俺の心を思い出している。思えば人生20数年生きてきて、最大のドツボにはまっていた。それ以後、今日67才まで仕事に病気に・・・ありとあらゆるドツボにはまってきた俺だが、この瞬間はまいった。北川や山中に「酒井さんはドツボが好きですね」とからかわれ、よく人から「二度とはいあがれないのがドツボでしょ」と言われるが、さにあらず、ちょっとニュアンスが違う。ピンチ、危機、ガケップチ、絶体絶命、そこには悲壮感すら漂うが、ちょっと違う。「ドツボにはまってしもたわ」と笑ってしまおうというのだ。笑ってしまうしか方法のない自分を見限ろうというのだ。

余談はさておき、波高き津軽海峡を渡っている。明日から本当の「さすらい」が始まる。15人もの大部隊、しかもおのおの自己主張しはじめたばかりの不完全な男と不完全な女が15人も。朝から晩まで同じ釜のメシを食い同じテントで寝て、いっしょに10日間も生きていくのだと。しかも俺が責任者だと?ああ、頭が頭痛、腹も腹痛らしい。クラクラしてきた。ええいままよ。なるようにしかならん。一晩寝たら北海道だった。

 

初めて見た北海道は、広大だった。本土ではいやというほど見かけたカニ族もこっちではさっぱり。カニ族とは横巾ばかり長大なキスリングを背負った当時の若者の別称だった。バカでかいブツの上に、鍋、カマ、テント一式を、むき出しで積み上げた、おそろしく巨大なしろものだった。今思うと。そんなものを列車やバスに持ち込んで行くのだから、狭い通路はヨチヨチゾロゾロ、まさにカニの横ばいそのものだった。列車やバスに乗るのが一番、大変だった。なんせ15人もの大集団。一人でも乗り遅れたら、どうにもならん。ワガママなんかいってる暇がなかった。北海道ワンデの第一歩は列車に乗ること。乗り遅れまいと皆、必死。助け合って乗車することから始まった。「15人の放浪、さすらい旅」は、列車やバスにゆられてる時が一番心おだやかだった。ところが、また歩き出したとたんに急変。「今夜のねぐらは?」「晩メシは?」「食料はどこで買う?」「どこで出す?(トイレ)」「風呂は?」とたんに「せつろし」なった。毎日毎日、そればっかり考えていた。今までなら、ああしろ、こうしろ、と先輩から言われた通り動いていたのに、突然、何もかも考えながら行動せなあかん。突然、ああしよう、こうしようと言わされる辛さ。イヤだ。やめたい。だって、あっちでもこっちでもブツブツ文句、言ってるやつがおるから。わが身一つのことも、ままならん俺が、15人もの生活までみられるわけがない。旅にさまよったのは体だけではなく心!15人の思いや考え、意見の間を、あっちフラフラさまよっていた。今風に言えば「ブレ」まくっていたのだ。「さまよいつづけていた小さな小さな俺。」

「ゲビちゃん、私もう疲れたの。歩くのイヤ。今日はここに泊まろ」と女の子に言われて、オロオロ。「ゲビオ、あの小学校がええ。あの海の見える校庭でテント張ろ、ええぞ。」と言われたら、ああ、夜明けの海が見たいなあと思い、「いや、あかん。今夜は温泉や。北海道まで来て露天風呂は入らんかったらアホ。汗流そ。」と言われて、あわててワキの下のにおいをかいだ。いつでも、どこでも右顧左眄。オロオロ、ウロウロ。「ゲビオ、おまえ、どう思ってるんや?」「おまえのアイディンティティは何や?(おまえには、ポリシーはないのか?)」いつも皆から責められたが、耐えるしかなかった。ただ、ひたすら、皆をまとめたかった。できもせんのに。皆が口々に勝手なことをいうのが悲しかった。ワイワイ、ガヤガヤ、口々に勝手なことを言っているうちに、「もう、どうでも、ええわ。何でも、ええから、はや決めよ。」と誰かが言い、「水が一番や。朝メシのオニギリの分も炊けるから、今夜は川のそばが一番。あの川のそばでテントを張ろ」と言った誰かの一言で決まった。あれこれもめた時、必ず救いの意見が出た。10日の間、大きなケンカが、おきなかったのはこんな頼りないリーダー相手にしても、しゃあないワガママ言っても、どうしょうもないと皆があきらめてくれたからだろう。毎日、毎日、フラフラ、さまよい歩き、やっと、その日のテントにたどりついた15人は、くたくただった。その日、その日。あの時のみんな、どうしていますか?その中の一人、千種は、もう、いません。昨年2月、突然亡くなって驚いています。ワンゲル50周年も知らないままで残念。一緒に祝いたかった。まさに「吾や先、人や先、明日をも知らず。」と古人が言った通り、無常。ああ、なつかしいもめごと。「今夜はホッケ食いてえ。」「あかんジンギスカンや。」「金がない。帰りの列車代、考えろ。」あのころ、尽きなかったもめごと。10日間、ギスギスした9人の男どもを、やんわりと静めてくれたのは女6人でしたね。やっぱり「この世は不完全な男と不完全な女しか、いない」のですね。15人で、さまよった10日間は私の宝ものです。

あれが忘れられず、二度も北海道をさまよいました。どちらも2週間。家内と二人の幼児(娘)つれて。義弟の軽トラに鍋、カマ、テント積んで。その時、二風谷のアイヌコタンで泊めてもらったのが心に残っています。あの時の「家族放浪」も、いいもんでした。北海道ワンデのみんな、どんな「さまよい」してますか?してきましたか?

 卒業してからも、放浪は続く。やれ非行対策、次は班づくり生活指導。はては、淀川河川敷・運動場づくり。背丈の倍以上に茂った葦(アシ)刈りから始めて、立派なものを作り上げました。生徒達と共に力を合わせて。公立中学12年、会社学習塾1年、私立校等専修学校16年、そして林業・農業。その一反百姓もはや12年になります。ワンゲルで覚えた放浪癖がぬけず、「仕事旅」してきました。しかも、この間ずっと病つづき。卒業前の単独行、南アルプス全山縦走も一日目にして腰椎間板ヘルニアで敗退。その再発に次ぐ再発で入退院の繰り返し。これが始まりで、その後、2回も心筋梗塞で運び込まれたり皮膚ガンでアウト寸前。その他家人から「病気のデパート」と冷やかされるほど「病気旅」できました。病気したから放浪したのか、放浪したから病気になったのか、今でもサッパリ分かりません。よくぞ67才の今日まで生きてこれたものです。思えば、みんな自分でまいた種。いい旅してきたもんです。いいさまよいでした。いや、心は今も、さまよっています。

八巻もいい旅してきたようです。お互い、勤め始めて間もないころ、宮城の彼の下宿を訪ねた時の話です。泊めてもらった翌朝、とびっきり早く「先生、釣りゆくべえ。ゆくべえ。」とカン高い声で叩き起こされました。小さな彼の教え子2人から。「おう、ゆくべえ、ゆくべえ。」とうれしそうだった八巻。小川の土手に腰をおろし、釣り糸をたれる3人の姿がじつによかった。ああ、いいなあ。うらやましいなあと思ったことを覚えています。二度目は3年前の仙台の七夕まつり同窓会。彼が戦車のごときランド・クルーザーで蔵王お鉢巡りしてくれて感激でした。車中で語ってくれた話がよかった。

イランの日本人学校に勤め、ヨーロッパ中街々を旅してまわったという。たしかジュッセルドルフとかの町も。生徒の親たちは大半、大企業の商社マンたちで、父母も共にエリート意識が強く言うべきことは言ってきたので、何やかやとぶつかったりして、気苦労が絶えなかったぞと、ずいぶん楽しそうに話してくれた。なまりが、学生時代より強くなっていて、中身は半分も分からなかったが、日本人学校への誇りと、教育熱が、いやというほど伝わってきて、うれしかった。八巻、いい旅してきたなあ。いや、今もあの愛車で東北中を疾駆しつづけていることだろう。

さて則さんだが、彼こそ、いい旅してきたもんだ。いや、今も、旅の途中。

何年も前に、大阪の守口の家を訪ねたことがある。大きな屋敷全体が何と「縄文式土器展示場博物館」と化していたのに仰天した。玄関入口から庭に、ズラッと並んだ背丈大の土器、土器・・・・。このウェルカムに驚いていたら各部屋、各部屋もう数え切れないほどの土器だらけ。しかも「自分で粘土をこねて、野焼きして土器を作り、それで野菜を煮て食べています。縄文人の生活しています」との説明文。母親のルーツをたどっていたら、富山県の五箇山(合掌造りの里)に行きついた。そこから火焔式土器にほれ込んで早期退職し、全国あちこち、さがしまわってきたという。これが俺の天命だとうれしそうに語った。今年もその縄文式土器の大会(研究会)が岩手県であり8月17日の50周年とぶつかった。「どっちに出るか悩んだが、やっぱりこっちにするわ。スマンな。」と言われた。そら、いくらワンゲルの50周年でも、「天命」には勝てん。日本全国、飛び回っている則さん、実にいい旅してるなあ。

私も八巻も則さんも3人とも昭和21年生まれ。戦後っ子。戦争を知らない世代。3人とも平和な時代に、「いい旅」「いいさまよい」してきたもんです。それぞれ自分の意志で道を選んできたのだから。

しかし、戦場をさまよった親父の様な生き方は、どうだ?私の父親は、百姓の三男に生まれたばかりに、さっさと兵隊にとられ無理やり満州へ送り込まれ、国家に強いられるまま人殺しまでさせられたかも?その苦悩を発散するすべもないまま、43才の若さで死んでいった私の父親。さぞ無念だっただろう。戦場から幸運にも生きて帰れたものの、やさしすぎた男に殺し殺されの世界は地獄。心が折れたのだろう。今ならPTSD、「生きる屍」「戦争ボケ」の毎日。まして、働いて妻子を食わせる力など、どこに残ってやしない。そのため幼かった姉と私は母から何度愚痴をくり返し、聞かされたことか。

いわく、「食べる米一粒なく、何度お前ら2人の手を引いて、宇治橋の上から飛び込もうとしたか、しれん。」いわく、「こんな、ことならいっそ、手の一本、足の一つも失くしてくれたら、傷痍軍人さんやった方が、なんぼ、ましやったかしれん。いっそ死んでくれたら恩給も出たのに・・・・。」

言われた父も哀れなら、言っている母は一層、哀れ。弱い人間を、心やさしい人間、家族を、さらにどん底、飢え地獄へと突き落とすのが戦争だ。

今は亡き父や母の声が聞こえます。

「生命かけて這いずりまわって、お前ら2人を守って育ててきた。父や母が体験した悪夢の戦場、飢え、地獄を想像しろ。そして決して忘れるな。わたしらが無理やり放浪させられた分だけ、お前に『いい旅』させてやれたということを。戦後っ子のボンボンのお前に出来ることは、ただ一つ。父母の放浪旅を決して忘れないこと。子や孫に伝えよ。忘れないために書け。そして思え。何も戦争だけじゃないぞ、『強制放浪』は。原発、放射能、犯罪、DV・・・。京田辺市にも福島から逃れてきた母と子がいるぞ。今も、さまよいつづけているたくさんの人々。お前の身の廻りを、よく見ろ!見て、生かせ、お前の放浪旅を。それがお前の天命だ。」と。

 その声で再び思い出しています。山岳遭難死した3人のワンゲルの仲間のことを。香西由美、野口 剛、直正明美。その事故報告書を追悼文集を何度も読み返しています。3人の人生を思っています。3人の山における死、そこに至った遠因を、自分のワンゲルでの活動が何らかの遠因を作ったのではないかと、つねに思っています。それは私だけではなく、われわれOB会皆の思いではないでしょうか。それを胸に抱きながら、今年、大学に集まります。

それも、ワンゲル「放浪旅」の一里塚。みんなで、語り合いたい。

 そして、3人の人生を決して忘れないでおこう。

 それが、「私の50周年」。

 

50周年で会えた人も会えなかった人も、350人のOB・OG、お一人お一人の「旅」、お疲れさんでした。

これからも「いい旅」できますよう!祈っています。

 

 「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」

 私の放浪はつづきます。